合意管轄条項と就業規則

合意管轄条項と就業規則

  • 取引先と交わす契約書には、訴訟を提起する場合は会社の所在地を管轄する地方裁判所に限定することを記載していますが、就業規則には記載しなくても良いでしょうか?
  • 適用する可能性が低いので、記載は不要と思いますが、その可能性があって、心配なようでしたら記載しても良いと思います。

合意管轄条項と就業規則

会社から離れた地域で訴訟を提起されると、移動の時間が掛かったり、弁護士費用が余計に掛かったりしますので、紛争が生じた場合に、訴訟を提起できる裁判所を特定して、契約書に記載することがあります。

従業員とトラブルが生じた場合のことを考えて、そのような合意管轄条項を就業規則に記載するべきかどうかということですが、記載したとしても、現実にその規定を適用する可能性はゼロに近いように思います。

従業員とトラブルが生じた場合に、従業員が申し立てる機関や制度として、主に次のものがあります。

  1. 労働基準監督署への申告
  2. 都道府県労働局(紛争調整委員会)による あっせん
  3. 労働審判
  4. 民事訴訟

それぞれの制度の概要を見て見ましょう。

1.労働基準監督署への申告

労働基準法(第104条)によって、残業手当の未払など、労働基準法に違反する事実がある場合は、従業員は労働基準監督署に申告できることが定められています。

労働基準監督署が申告を受理すると、申告に基づいて、労働基準法違反の有無を調査します。そして、労働基準法違反の事実が発覚したときは、会社に対して、是正するよう勧告や指導を行います。

この場合は、会社の所在地を管轄する労働基準監督署が対応しますので、他府県に出向くよう求められることはありません。

2.都道府県労働局(紛争調整委員会)による あっせん

あっせんとは、労働問題の専門家が労使の間に入って、会社と従業員の主張を調整しながら、双方が譲歩して解決を目指す制度です。話し合いで解決、合意しなかった場合は、あっせんは打ち切られます。

あっせんは、解雇や雇い止め、賃金の不払い、労働条件の引下げ、配置転換、嫌がらせ等の個別的な労働紛争が対象になります。労働基準監督署で取り扱う内容は、労働基準法や労働安全衛生法に違反しているものに限られますが、あっせんは、それより範囲が広いです。

そして、都道府県労働局の紛争調整委員会による あっせんは、「個別労働関係紛争の解決の促進に関する法律」に基づいて運営される制度で、この法律の施行規則(第4条)によって、次のように規定されています。

あっせんの申請をしようとする者は、あっせん申請書を当該あっせんに係る個別労働関係紛争の当事者である労働者に係る事業場の所在地を管轄する都道府県労働局の長に提出しなければならない。

あっせんの申請書は、従業員が在籍していた(在籍している)会社の所在地を管轄する都道府県労働局長に提出することになっています。したがって、この場合も、他府県に出向くよう求められることはありません。

3.労働審判

労働審判とは、裁判所で迅速・適正かつ実効的に労働紛争を解決しようとする制度で、原則3回以内の審理で終了します。また、通常の民事訴訟はどちらが正しいかを判断しますが、労働審判ではトラブルの実情に合った柔軟な解決案が示されます。

話合いによって調停が成立するか、労働審判に対して期限内に双方が異議を申し立てなかった場合は確定して、裁判上の和解と同じ効力が発生します。一方、労働審判に対して異議を申し立てた場合は失効して、自動的に通常の訴訟に移行します。

労働審判もあっせんと同様に、解雇や雇い止め、賃金の不払い、労働条件の引下げ、配置転換、嫌がらせ等の個別的な労働紛争が対象になります。

そして、労働審判は、労働審判法に基づいて運営される制度で、この法律の第2条において、労働審判手続に係る事件は、次の地方裁判所の管轄とすることが規定されています。

  • 相手方の住所、居所、営業所若しくは事務所の所在地を管轄する地方裁判所
  • 個別労働関係民事紛争が生じた労働者と事業主との間の労働関係に基づいて当該労働者が現に就業し若しくは最後に就業した当該事業主の事業所の所在地を管轄する地方裁判所
  • 当事者が合意で定める地方裁判所

ここに申立人の住所地は含まれていませんので、原則的として相手方の所在地を管轄する地方裁判所になります。したがって、従業員が申し立てる場合は、従業員が在籍していた(在籍している)会社の所在地を管轄する地方裁判所になります。

地方裁判所は全ての都道府県に設置されていますので、この場合も、他府県に出向くよう求められることはありません。

4.民事訴訟

民事訴訟法では、原則として被告の所在地を管轄する裁判所に訴えを提起することになっていますが、原告の所在地を管轄する裁判所に訴えを提起することも通常は認められます(訴えの内容によります)。

以上により、1.労働基準監督署への申告、2.都道府県労働局(紛争調整委員会)によるあっせん、3.労働審判については、就業規則に管轄の合意に関する記載をしなくても、会社の所在地を管轄する機関で調停や審判等が行われます。

これらの場合は、就業規則に管轄の合意について、記載する必要がありません。合意管轄条項は、従業員から4.民事訴訟を提起される場合に限って適用されます。

合意管轄条項が適用される可能性

それぞれの機関・制度で申請された件数は、年度によって異なりますが、概ね次のとおりです。

機関・制度1年間の申請件数
労働基準監督署への申告約30,000件
都道府県労働局による あっせん約 4,000件
労働審判約 4,000件
民事訴訟(労働関係)約 4,000件

民事訴訟(労働関係)の申請件数は、あっせん、労働審判と横並びですが、労働基準監督署への申告と比較すると桁が1つ違います。

また、企業間で取引をする場合は、相手方の所在地が他府県のケースがありますので、契約書に合意管轄条項を記載する意味はあると思います。しかし、会社に通勤する従業員は、退職後に引っ越さない限り、住所地は会社の近くのままです。

したがって、就業規則に合意管轄条項を記載しても、適用するケースはかなり限定されます。

就業規則に合意管轄条項を規定することによる悪影響

会社から離れた地域で訴訟を提起されるリスクを回避するために、就業規則に合意管轄条項を記載するとしても、それによって悪影響が生じないか考えた方が良いでしょう。

例えば、就業規則に、「労働契約に関して裁判上の紛争が生じたときは、会社の本店所在地を管轄する裁判所を第一審の専属的合意管轄裁判所とする」と記載していたとします。これを見た従業員は、どのように思うでしょうか。

このように思うかもしれません。勤務を続ければ、疑いは晴れると思いますが、少なくとも、会社に対して良い印象を与えることはないように思います。

総合的に考えると、就業規則に合意管轄条項を規定することで得られるメリット(他府県で訴訟を提起されない)より、デメリット(従業員に悪い印象を与える)の方が大きいと思います。

就業規則・雇用契約書の記載例

民事訴訟を提起される会社は、ハインリッヒの法則に照らし合わせて考えると、その前に労働基準監督署に申告された経験があると推測されます。

労働基準監督署から会社に対して、従業員が申告したと伝えられることはありませんが、そのように見受けられるケースが複数回あった会社については、民事訴訟を提起される可能性が高いので、就業規則に合意管轄条項を追加しても良いかもしれません。

就業規則の記載例は、次のとおりです。

「労働契約に関して裁判上の紛争が生じたときは、会社の本店所在地を管轄する裁判所を第一審の専属的合意管轄裁判所とする。」

労働契約法(第7条)によって、合理的な労働条件を定めた就業規則を従業員に周知していた場合は、その就業規則が労働契約の内容になることが規定されていますので、就業規則の合意管轄条項は有効と考えられます。

ただし、管轄裁判所の合意は契約書に記載する方法が通例ですので、従業員の場合は、就業規則より雇用契約書で定めておいた方が確実です。雇用契約書の記載例は、次のとおりです。

「本契約に関して裁判上の紛争が生じたときは、会社の本店所在地を管轄する地方裁判所を第一審の専属的合意管轄裁判所とする。」

なお、私の経験上、管轄裁判所の合意について記載している雇用契約書は見たことがありますが、就業規則に記載しているものは1回も見たことがありません。


執筆者 社会保険労務士 木下貴雄
2002年にキノシタ社会保険労務士事務所を開業し、就業規則を専門として、業務に取り組んできました。現在は、メールによるサービスの提供に特化して、日本全国の中小零細企業のサポートを行っています。

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